自動車の世界にその名を刻んだ11人の女性たち

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自動車史を支えた女性たち:発明やイノベーション、リーダーシップ、類い稀なる勇気、そして大いなる成功によって、自動車史に燦然と輝く足跡を残した11人の女性を紹介します。

2021/3/25

今日私たちが享受することができる駆けぬける歓びを語るうえで、自動車史上において偉大なる功績を残した女性たちの活躍に触れないわけにはいきません。例えば、雨天時に不可欠なワイパーを発明したのは女性です。車載暖房やケブラー繊維の発明者も女性でした。20世紀初頭、誕生したばかりの自動車を運転するドライバーの多くは、先駆的な女性たちでした。さらに自動車での世界一周は、1929年に女性ドライバーによって初めて成し遂げられたこともあまり知られていない事実です。ドイツの伝説的なサーキット、ニュルブルクリンクで行われる24時間耐久レースを完走した最初のトランスジェンダー・レーシング・ドライバーも女性でした。彼女は自らの殻を突き破ることで新たなアイデンティティを確立し、ロール・モデルとしての地位を築いたのです。これらの偉業は、世界中の素晴らしい女性たちの人生と深く結びついています。ここからは、自動車産業とモータースポーツに確かな足跡を残した、11人の印象的な女性たちをご紹介します。

1. ヴィルヘルミーネ・エアハルト

自動車の歴史のなかで、女性は重要な役割を担っています。しかし、かつて自動車は男性の領域に属するものだと考えられており、現在の私たちにとって当たり前のことも、その当時ではまったく珍しいこととされていました。1899年の春、ドイツのアイゼナハ車両製作所がそれまでに生産されたすべての自動車を率いて、初の大規模な遠征を行いました。その際に所長の妻であったヴィルヘルミーネ・エアハルトが、4台のヴァルトブルクのうちの1台を颯爽と運転する姿を見て道行く人たちが大変驚いた、と財団法人アイゼナハ自動車博物館の会長であるマティアス・ドートが語っています。自信と好奇心に満ちたヴィルヘルミーネ(1866年8月23日~1945年2月23日)にしてみれば、自らの手で自動車を駆ることへの情熱を抑えきれなかったのでしょう。1899年7月23日、夫のグスタフ・エアハルトが新たに開発したヴァルトブルクのレーシングカーで、オーストリアのインスブルックからドイツのミュンヘンまで初の国境越えを含む長距離ドライブへの出発を決めたとき、彼女は即座に同行することを選びました。イン・バレーを通過してクーフシュタインとローゼンハイムを経由するルートは山道が多く過酷なものでしたが、ヴィルヘルミーネにとってそれはむしろワクワクするチャレンジのようなものだったのです。

その後、ヴィルヘルミーネは自動車レースのスタート・ラインに立つという夢を叶えるために、1年近く待たなければなりませんでした。しかし、それは待つに値するものでした。1901年8月3日。アイゼナハを出発してマイニンゲンで折り返し、再びアイゼナハへと戻る長距離レースに参戦した彼女は、モータースポーツの歴史にその名を刻んだのです。ハイニッヒの連山を通過するこのレースで、ヴィルヘルミーネは他車よりもエンジンが劣っていたにもかかわらず、表彰台まであとわずかという結果を残しました。

2. ステファニー・クオレク

1968年11月22日、ドイツ特許庁は「化合物およびそれから作られた繊維または糸」と題する特許出願DE 1810 426を受理しました。特許には、今日の自動車産業や宇宙開発、そして防弾チョッキなどの分野でも使用されている超繊維について具体的に記されていました。この発明の“母”こそが、化学者のステファニー・クオレク(1923年7月31日~2014年6月18日)です。彼女は医学博士号を取得する費用を賄うために、ニューヨーク州バッファローにあるデュポン社の紡織繊維研究所で研究職に就きました。1960年代初頭、彼女は同社の試験場でラジアル・タイヤ強化のための繊維研究に従事しました。それは炭素の鎖分子を操作して、より大きな分子(ポリマー)を作るという仕事でした。1964年のある日、クオレクは固形のポリマーを液状に加工する上での困難に直面します。生成される液体は、彼女が期待した透明なシロップ状の混合物とは程遠い、薄くて不透明なものだったのです。そこで彼女は同僚の科学者を説得し、液体溶剤を取り除いて繊維だけを残す回転式蒸発器を用いて、その液体を「紡ぐ」という方法を試すことにしました。のちに彼女が『幸せな事故』と述べたこの出来事により、重量と耐火性はスチールと同等でありながら5倍の強度を誇る素材「ケブラー」が発見されたのです。

ケブラー繊維は耐炎・耐熱性、強度、剛性等の優れた特性を兼ね備えており、フィルターやベルト、シーリング、そしてタイヤなど、自動車産業で使用される部材をより高品質なものにするために用いられています。仕上げ層や中間構造に使用される場合、ケブラー繊維はハイパフォーマンス・タイヤに不可欠な、高温・高速下における極めて高い寸法安定性を確保します。さらに走行音の低減や、回転重量の軽量化によるエンジン負荷の軽減といったメリットもあります。ステファニー・クオレクのような女性エンジニアによる発明が、自動車産業発展の礎を築いてきたのです。

3. クレレノーレ・シュティネス

クレレノーレ・シュティネス(1901年1月21日~1990年9月7日)もまた、自動車史上における偉大な女性のひとりです。良家の娘に生まれたシュティネスは、男性にできることは女性にもできると常に信じていました。「私たちは男性より優れているわけではないけれど、少なくとも同じくらいのことはできるでしょう」と、かつてインタビューで述べたこともあります。勇敢な彼女は、その名と女性の持つ力を世界へ知らしめるための行動に出ます。26歳のとき、シュティネスは自動車で世界一周をするという、それまで誰も成し遂げたことのない壮大な冒険に出発したのです。最高出力34.5馬力のアドラー・スタンダード6を駆り、極寒と灼熱、そしてぬかるみや砂利道を進む25カ月の過酷な旅。行く先には、ガソリンスタンドや整備工場のまったくない地域はもちろん、地図や道さえ存在しない大地もありました。この命がけの冒険は、引き返すという選択肢を持たなかった女性の不屈の闘志によって見事に達成されました。

1929年6月24日。シュティネスと同行者であるスウェーデン人の撮影技師、カール=アクセル・セーデルストレムがベルリンのゴールラインを通過したとき、オドメーター(走行距離計)は29,054マイル(46,758km)を示していました。シュティネスは危険を顧みず自動車で世界を駆けぬけた最初の人物です。フランクフルト・アム・マインを出発した2人は東へと進み、バルカン諸国を通過し、コーカサス山脈を抜けてシベリアへ。ゴビ砂漠を通過して中国、そして日本へと渡り、アンデス山脈とアメリカを越えて最後は船でヨーロッパに戻りました。通過した国は、全部で23カ国にも至りました。

4. メアリー・アンダーソン

自動車史上のロール・モデルとなる女性たちのなかから次に紹介するのは、自身の観察力によって発明を成し遂げた人物です。メアリー・アンダーソンは、ニューヨークの街を散策していたとき、悪天候のもとで運転に苦労している人たちがいることに気がつきました。当時、雨や雪のなかでは、フロント・ウインドーを拭くため頻繁に車外へと出る必要がありました。若い彼女にとって、ワイパーの必要性は自明の理でした。アンダーソンは1903年に、自身の発明に対する特許を出願しました。ロバート・ダグラスやジョン・アプジョンも同じ年に同様の特許を出願していましたが、出願のなかに唯一動力装置を含めていた彼女の発明が、特許を取得することに成功しました。1903年11月10日付で、米国特許庁はメアリー・アンダーソンの発明に係る、自動車やその他車両の「運転手の前方にあるガラスから雪、雨およびみぞれを取り除くための窓清掃装置」に対して米国特許第743,801号を付与しました。彼女が発明した装置には、ドライバーが手で操作することができるレバーがステアリング・ホイールの高さに備わっていました。レバーを操作するとゴム・バンド付のスプリング式スイング・アームが作動し、元の位置に戻るというものでした。

特許を取得したアンダーソンは、カナダの製造会社に契約を持ちかけましたが、実用的ではないという理由によって断られてしまいました。1913年までに機械式ワイパーはほとんどの自動車に標準装備されるようになりましたが、彼女が発明による利益を得ることはありませんでした。しかし、メアリー・アンダーソンはワイパーの発明者として、その後の自動車工学の礎を築いた女性のひとりです。彼女のエンジニア的な視点から生まれた偉大な発明は、いかなる天候下においてもドライバーがクリアな視界を確保することに、今も変わらず役立っています。

5. ベルタ・ベンツ

自動車産業における女性史のなかで、ベルタ・ベンツは特に先駆的な人物であると言えるでしょう。自動車での成功を確実なものとしたのは、カール・ベンツではなく妻のベルタだったのです。1888年8月に初めて自動車で国境を越えることに成功したのも、「彼」ではなく「彼女」でした。ベルタが携えていたものは、愛する息子たちと勇敢さ、そして自信でした。ここで時間を少し巻き戻すことにしましょう。カール・ベンツは、1886年にドイツのマンハイムで自動車を発明しました。ドイツ特許番号37435に登録されたこの発明は、しかしながら期待していたような反応を周囲から得ることはできませんでした。実際のところ、人々は新しく登場したこの「馬にひかれない馬車」に不信感を抱いていたのです。途方に暮れるカールを見て、ベルタは自ら運転席へと座り、マンハイムからプフォルツハイムまでの66マイル(106km)を運転してみせました。

このような移動は、当時としては真に大胆な冒険でした。舗装された道はほとんどなく、凸凹の激しい未舗装の道を運転する日々です。道路標識も存在しないため、鉄道の線路が唯一の方角を探る頼りでした。修理が必要になった場合は、婦人帽の留めピンやガーターベルトで賄っていました。このような離れ技が功を奏し、ベルタによる夫のための「宣伝」は大きな成功を収めます。特許を取得した自動車はさらなる発展を遂げることとなり、ここから「自動車の時代」の大躍進が始まってゆくのです。

6. マーガレット・ウィルコックス

誕生当初から自動車が快適なものであったのは、あるアメリカ人女性のクリエイティブなひらめきのおかげです。1838年、シカゴに生まれたマーガレット・ウィルコックスが車載暖房の発明者であると見なされています。最初期の女性エンジニアのひとりであったウィルコックスは、アメリカにおいて数多くの発明に係る特許を取得しています。

1893年の秋、彼女は車載暖房装置に関する特許を出願し、同年11月28日に登録されました。彼女が発明した装置は、車両の下に設けられた燃焼室とパッセンジャー・コンパートメントの真下の配管によって構成されています。管には燃焼室で熱された温水が循環する仕組みとなっていました。これは自動車産業にとって一石二鳥の重要な発明でした。車内を適切な温度に保つことによって快適な運転環境を叶えると同時に、寒い時期にはウインドーが曇るのを防止し、安全性の向上にも寄与することになったのです。

7. ダニカ・パトリック

ダニカ・パトリックは、モータースポーツの世界で女性がどれだけ速く走り、成功することができるかを見事に証明してみせました。アメリカのウィスコンシン州出身の彼女は、NASCARとインディカー・シリーズにおいて最も成功を収めた女性のひとりです。2005年から2018年にかけて、彼女はレース・シリーズに参戦していました。パトリックは2005年、ホームステッド=マイアミ・スピードウェイでインディカー・レースにデビューしました。2008年には日本のツインリンクもてぎにおいて、インディカー史上初、そして唯一となる女性ドライバーによる勝利を収めました。インディカー参戦期間を通じたパトリックのシーズン最高位は、2009年の9位。この年、彼女はインディ500で3位に入賞したほか、デイトナ24時間耐久レースでは8位という結果を残しました。パトリックは8年間で計116戦にエントリー。そのうち7度の表彰台と、3度のポール・ポジションを獲得しました。

パトリックは2011年までインディカー・シリーズに参戦し続け、同時にNASCARにもエントリーしていました。彼女はNASCARのセカンド・カテゴリーであるエクスフィニティ・シリーズに2年間スポット参戦した後、2012年に初めてフル参戦。さらに翌2013年には、トップ・カテゴリーであるカップ・シリーズへとステップアップしました。彼女は7年間で191レースに出走。残念ながら表彰台を獲得することはできませんでしたが、7度のトップ10入りを果たしました。2013年には伝統のデイトナ500において女性初のポール・ポジションも獲得しています。2018年に自らの判断で引退を決断したことも、彼女のロール・モデルとしての振る舞いを示すものでした。

8. ズザンネ・ヴァンダービルト

1950年代半ば、ゼネラル・モーターズは女性消費者への新たなアプローチとして、10人の女性で構成されるチーム「Damsels of Design(デザインの乙女たち)」を立ち上げました。しかし残念ながら、アメリカ初の女性デザイン・チームは短命に終わりました。1960年代初めにビル・ミッチェルにこの部門が引き継がれると、ほとんどの女性デザイナーはチームを去っていきました。ミッチェルは「私が信頼するシニア・デザイナーに才能で並ぶ女性はいない」と述べたと伝えられています。この宣告と当時の自動車業界における男性優位の風潮にもかかわらず、「Damsels of Design(デザインの乙女たち)」のオリジナル・メンバーのひとりであったズザンネ・ヴァンダービルトは会社に残って粘り強くキャリアを積み重ね、1972年にはシボレー・インテリア・スタジオのチーフ・デザイナーに任命されました。

ヴァンダービルトはノヴァやカマロ、そしてシベットといったシボレーの小型車において責任者として関わりました。しかし、彼女はキャリアの絶頂期に病に見舞われ、仕事を減らすことを余儀なくされてしまいます。1977年にはゼネラル・モーターズを早期退職。その11年後に、55歳の若さでこの世を去りました。肉体的にも精神的にもタフなこの分野に彼女が留まった理由とは、いったい何だったのでしょうか。その答えは彼女の次の言葉に示されています。「私がデザイナーをなぜ続けるのか。それは決して満足することなく、常に完璧を求め、そして斬新でクリエイティブな答えを追い求めているからです」。

9. チャーリー・マーティン

チャーリー・マーティンは、ドイツの伝説的なサーキット、ニュルブルクリンク北コース(ノルドシュライフェ)を舞台に行われる24時間耐久レースにおいて、新たな歴史を作りました。BMW M240i Racingを駆り参戦した彼女はクラス4位の成績を収めました。しかし39歳の彼女にとって、そのリザルトは二の次でした。彼女はもっと大きな目標—— 男性優位のスポーツにおいて、女性としての自分を証明するということに駆り立てられていたのです。チャーリー・マーティンは、1981年にイングランドのレスターで、男の子として誕生しました。

この伝統のレースを完走した最初のトランスジェンダー・レーシング・ドライバーとなったマーティン。彼女はその勇敢さで夢を叶えると同時に、自らがロール・モデルとなったのです。困難な決断を下し、自分の進む道に忠実であり続けることは非常に勇気が要ることです。彼女は自らの勇気を共有することで、モータースポーツにおける多様性のさらなる変化を促し、女性レーサーを増やすための道を開くことを目指しています。「自分の価値観に情熱を持ち、皆がそれぞれの人生において活躍するべきだ、という気持ちを伝えてくれるアンバサダーがスポーツの分野にいれば、世の中を大きく変えることができるのではないでしょうか」( ➜ こちらからニュルブルクリンクでのチャーリー・マーティンのレポート全文を読むことができ、さらにBMWのポッドキャスト『Changing Lanes』を聴くことができます※リンク先、ポッドキャストは英語です。)

10. レラ・ロンバルディ

自動車の世界における女性の影響は、モータースポーツの最高峰においても見られます。F1の歴史において、レラ・ロンバルディ(1941年3月26日~1992年3月3日)は、ポイントを獲得した唯一の女性ドライバーです。精肉店の娘としてイタリアのピエモンテ州に生まれた彼女にとって、レーシングカー・ドライバーになるまでの道のりは確かに回り道でした。ハンドボールのプレー中に深刻なけがを負ったロンバルディは、救急車で病院へ運ばれる際にその速さに魅了され、室内スポーツの代わりにモータースポーツの道に進むことを決めたのです。1974年から1976年にかけて、ロンバルディはF1世界選手権に12回出走し、そのうちの7戦で完走を果たしました。1974年にブランズ・ハッチで行われたイギリス・グランプリにて、アリード・ポリマー・グループ・チームからデビューを飾りましたが、結果は予選落ち。翌1975年、マーチへとチームを移籍した彼女はキャラミでの南アフリカ・グランプリで、初の決勝レースへと進みました。

同年4月27日。バルセロナのモンジュイック・サーキットにて行われたスペイン・グランプリで、ロンバルディは6位となり0.5ポイントを獲得しました。F1史上、ポイントを獲得した女性ドライバーは彼女だけです。狭い市街地コースでのレースは、先頭を走っていたドイツのロルフ・シュトメレンを巻き込んだ大事故により中断のままレースが終了したため、ポイントは通常の半分となりました。通常6位のドライバーには1ポイントが与えられるため、ロンバルディの獲得ポイントは0.5ポイントとなったのです。これは現在でもF1における生涯獲得ポイントの「最小記録」ですが、一方で彼女は「最大記録」の保持者でもあります。それはカーナンバーです。1974年のブランズ・ハッチにおいて彼女のマシンに付けられた“208”は、F1史上最大のカーナンバーです。これは、スポンサーのラジオ・ルクセンブルクの当時の波長が208mであったことに由来しています。現在F1においては99を超えるカーナンバーが許可されていないため、彼女の記録が破られることはないでしょう。51歳の誕生日を数日後に控えた1992年3月に乳がんでこの世を去ってしまいますが、この内気でありながらもエネルギッシュなイタリア人女性が駆けぬけた人生は、多くの人の心に刻まれています。

11. ユタ・クラインシュミット

ユタ・クラインシュミットは、モータースポーツの世界で活躍する女性についてのあらゆる決まり文句を覆し、それを人里離れたサハラ砂漠の彼方へと追いやりました。1988年、クラインシュミットはパリ-ダカール・ラリーにモト(2輪)部門で初めて挑戦。その後2001年にはドイツ人として、そして女性として初めて、この世界で最も過酷なラリーを制しました。6,600マイル(10,600km)の距離を三菱パジェロ・エボリューションで駆けぬけたバイエルン人は、わずか159秒の差でダカールのゴールへと到達したのです。その後、彼女は広大な砂漠を横断するこのレースにフォルクスワーゲンから数回参戦したのち、2007年のダカール・ラリーではBMW X-RaidチームからBMW X3 CCで参加しました。

類い稀なる勇気と技術的なノウハウを持ち合わせた彼女は、約20年に渡ってレースの世界に印象的な足跡を残してきました。ロードレースのゲスト・スターターやインストラクターとして。この情熱を持ったヘリコプター・パイロットは、今日までモータースポーツに忠誠を誓っています。加えて、さらに彼女は現在、モチベーション・トレーナーや企業向けの講演や講習を行う活動にも精力的に取り組んでいます。クラインシュミットは、どのような場面においてもパワフルな女性の、優れたロール・モデルなのです。

記事:マークス・レープライン/イラスト:オリアナ・フェンヴィック