にほんもの
夏も近づく八十八夜。『茶摘』という歌にもうたわれている「八十八夜」とは、立春から数えて88日目のこと。この日は一番茶を摘むのに最適の日とされ、茶の産地では「八十八夜に摘んだお茶を飲むと健康になる」と言われている。
中田英寿が全国有数の茶の産地である佐賀県嬉野市を訪ねたのは、5月2日。ちょうど今年の八十八夜の日だった。天気は快晴。ドライブをしていても、丘陵に並ぶ茶畑の緑が目に心地よい。製茶工場の近くを通ると、ゴールデンウィーク真っ只中にもかかわらず、もくもくと湯気が上がっている。この地域は、釜炒り茶をルーツに持つ蒸製玉緑茶が有名。蒸気で蒸す香りが鼻をくすぐると、とてもリラックスした気分になる。
中田は今年、日本茶について学ぶために全国の茶の産地を旅する予定だ。彼はかつて2009年から足掛け6年半かけて沖縄から北海道まで全都道府県をめぐり、各地の文化、農業、産業などについて学んだ。その旅で彼は、日本酒や伝統工芸の魅力を知ることになり、それらが彼のライフワークとなった。
その中田が新たに興味を持ったのが日本茶だ。彼は言う。
「日本茶と日本酒は似ています。日本人の生活に欠かせないものでありながら、あまりに日常的であるがゆえに、多くの人がその魅力をきちんと理解していません。ちゃんと日本茶を知り、楽しむことができればもっと毎日の生活が豊かになるのではないかと考えました」
そんな思いで始まった“日本茶をめぐる旅”。その最初の目的地となったのが、室町時代から続く茶の産地、嬉野市だった。温泉宿が並ぶ市街地を抜け、木々に囲まれた細く急な坂道をしばらくのぼると、目の前にあらわれたのは鮮やかなグリーンの茶畑。副島仁さんは、この地で四代続く「嬉野茶」の生産者だ。
「お茶は思いを伝えることができる飲み物。種類や淹れ方によって味も変わるし、効果も変わる。それぞれの違いを知ることができれば、より深くお茶の世界を楽しむことができると思います。お茶には、日本人の相手を思いやる文化が宿っている。それを次の世代に残していきたいと思っています」
八十八夜のこの日、茶畑では副島さんの家族が茶を手摘みする姿が見られた。副島さんが営む「副島園」では、無農薬・減農薬にこだわり、手間ひまかけてつくった茶をすべて直売している。「大量に生産して出荷することよりも、安心、安全、そしておいしいお茶を直接お客さんに届けたいという思いで、面積を減らして無農薬・減農薬の栽培を広げ、販売も直販だけにしています。現在は、緑茶だけでなく紅茶や烏龍茶も作り、茶の可能性を広げていきたいと考えています」
高台につくられた茶畑は、寒暖の差が大きく、そのぶん味がよくなる。雲ひとつない空の下、爽やかな風が吹き抜ける茶畑を歩いているだけで、とても気分がよい。茶畑のいちばん上までたどり着くと、そこには木製のテラスが設置されていた。「どうぞこちらにお上がりください」いわば、屋根のない茶室。ここで副島さんが茶を振る舞ってくれるという。眼下にはさきほど通り抜けた市街地が見え、その向こうには緑の山々が並ぶ。まさに絶景。なんとも贅沢な時間だ。
一杯目は、ぬるめの湯で淹れた煎茶。こぶりの茶器に少量をゆっくりと味わいながら楽しむ。“日本茶をめぐる旅”の記念すべき一杯目だ。まるでワインをテイスティングするかのように中田は、茶器をしげしげと眺め、香りを確認してから、口元に運ぶ。
「色がきれいだし、香りも高い。甘みと旨みのなかにほんのり苦みや渋みも感じますね」
上質な茶は、ぬるめの湯で淹れることで、甘みと旨味が際立つという。高い香りと濃いめの味わいは、嬉野茶の特長。副島園では、肥料から徹底的にこだわることで、色、香り、味わいのすべてを満たすさまざまな品種の茶葉を生産している。
「これは“さえみどり”という品種です。渋みが少なく、色が美しいのが特長です」
二杯目は、よく冷えた水出し茶。シャンパン用のフルートにいれられると、その美しい色が際立つ。
「温かいお茶より、甘みと旨みが強くなるんですね。すっきりとした味わいで飲みやすい。品種は“やぶきた”ですか?」
茶葉の品種は数多くあり、その代表的なものが「やぶきた」だ。味わいが濃厚で香りも豊かなこの品種は、全国の生産地で多く作られていて、コメにたとえるなら「コシヒカリ」のような存在だ。
「そのとおりです。よくわかりますね」
「たまたまです(笑)。お茶は淹れ方やお湯の温度で味や香りが変わるから難しいですね。これからもっと勉強して、一口飲んだだけで品種や淹れ方がわかるようになりたいです」
日本茶の世界は奥深い。だが、旅は始まったばかりだ。中田英寿はこれからたくさんの茶を飲み、たくさんの人に出会い、茶を学んでいく。