2017年、ザルツブルク。ザルツマンの頭に、突然夢のような計画が浮かびます。「当時私は、スカイダイビングとベースジャンプ用のスーツを友人たちと共同で設計していました。ある日、私たちはテストの後に集まり、いかにしてより良いスーツを作るかのアイデアを出し合っていました。その中にブースト・システムを採用するという案があり、それが私の頭から離れなくなってしまったのです」。ザルツマンは子供の頃からずっと、空を飛ぶことを夢見ていました。「飛行とは、自由そのものです。未知を追い求め、新たな地平を発見する究極の方法です。しかし私がこのアイデアに惹かれた最大の理由は、現地の山を出発して自宅の庭まで真っすぐに飛んでいくことができるかもしれないということでした。その想いが私を駆り立て、科学的な研究を始めるきっかけとなったのです」。
筋金入りのアスリートありながらも、物腰が柔らかく落ち着いた印象を与えるザルツマンは、すぐに周りの人を惹きつけるカリスマ性を持った人物です。
彼は数週間ガレージにこもり、ブースト・システム付きのウイングスーツを具現化する方法を模索しました。同時にそれは彼にとって、スカイ・スポーツを進化させ新たな分野を開拓するためでもあったのです。アスリートであると同時に経験豊富なスポーツ科学者でもある彼は、重量、風速そして飛行軌道を詳細に計算、測定しました。どんな些細なディテールにも、新たな進歩につながる可能性があると信じています。滑空時間の改善を望んでいたザルツマンは、それまでよりも高い高度から出発してより遠くまで飛行し、適切な場所に安全に着陸したいと考えていました。「すぐにインペラを思いつきました。つまり、リング状あるいはチューブ状のハウジングに収められたプロペラです。しかし、燃料で動くものや従来型の推進システムは問題外でした」。そしてこう続けます。「私にとって、サステナビリティは極めて重要なファクターであり、日常を生きる上での理想でもあります。私は空中でも地上でも自然を享受しています。ですから当然、クルマに関してもサステイナブルでありたいと思っていました。そんな私の夢を実現へと導いてくれたのが、BMW iだったのです。現在は完全電気自動車のBMW iX3とともに、自らの信念を貫きながら次のジャンプへの準備を行うことができます」。
人生には、それまでやってきたことをずっと続けるのか、あるいは新しいことに挑戦するのかを決断しなければならない時があります。ピーター・ザルツマンは、迷わずその後者を選択する人物でしたが、そのためにはエキスパートの力を借りる必要があることもわかっていました。そして2017年、BMW iの協力によって彼はその答えを見つけます。「私たちの将来を見据えた電気駆動への取り組み、そして革新的な素材や技術は、ピーター・ザルツマンの奇抜だけれども魅力的なアイデアを叶えるにはうってつけのものでした」と語るのは、この企画のスポンサードを決定したBMW iのステファン・ポニクバです。


当時、完全電気駆動のBMW iX3が開発中だったこともあり、ソリューションは明らかでした。ザルツマンとBMWが電気モーター付きのウイングスーツを共同開発する。高高度向けの電動ドライブユニットを設計する。再生可能エネルギーで動き、発熱が最小限に抑えられ、通常のウイングスーツで使用できるぐらい小型であること。クリアすべき条件は、この3つでした。「私自身を鼓舞したのは、ウイングスーツ・フライングをより進化させたいという思いでした」とザルツマン。「BMWに完璧なパートナーがいてくれたため、最高の安全基準で必要な開発段階のすべてを経てプロジェクトを実現させることができました」。彼はBMW iを通じて、BMW Groupのシンクタンクでもあるスタジオ、デザインワークスとも密接な関係を築いています。このスタジオから派遣されたエキスパートとともに、新たな推進技術にふさしい電動式インペラとウイングスーツの開発に取り組みました。
私たちの将来を見据えた電気駆動への取り組み、そして革新的な素材や技術は、ピーター・ザルツマンの奇抜だけれども魅力的なアイデアを叶えるにはうってつけのものでした。
BMW ウィングスーツ プロジェクト 支援担当
アイデアからスケッチが生まれ、スケッチがデジタル化され、デジタル・モデルから初期プロトタイプが完成します。「初回のものはボール紙製でした。インペラ・ユニットに加えて、バッテリーと搭載されるすべてのもののサイズ感を掴むために、私が組み立てました」と語るザルツマンは、この段階で大小2つのモデルを製作しています。次にチームはアルミニウム製のプロトタイプを製作しますが、これにはまだインペラや電子装備は備わっていませんでした。重量および寸法をシミュレートするために作られたこのプロトタイプを、ザルツマンはハーネスと胸の上の固定装置で着用していました。彼はスポーツ科学者として、ネジの細かな調節まであらゆる段階で開発に携わっていたのです。
「開発の過程はまさに成功と失敗の連続で、何度も何度も新たな課題に直面しました。」と彼は振り返ります。「初回の設計図ではインペラ・ユニットは後方にありました。しかし、エアロダイナミクス・エンジニアとの話し合いによって、前へ移動させることにしました」。直径約13センチの2つのプロペラが備わった最終ユニットは、未来的な小型潜水艦を思わせるものでした。それは50ボルトのリチウム・バッテリーで駆動され、重量は12kg、胸部プロテクターのヒンジ・システムでパイロットに固定されます。カーボン・ファイバーとアルミニウムの軽量構造によるこれら2基のインペラは、両方で15kWの出力があり、移動時の回転数は約25,000rpmでした。
当初、スーツを使った一連の測定は、BMWが運営する水平(回流式)風洞であるエアロラボで行われました。ザルツマンは説明します。「最初の数回はすべてマネキンでテストを行いました。当初のインペラとウイングスーツを使用した結果として生じるすべての力とモーメントを測定し、これに基づき特定されたインペラと位置を選択しました」。その後、彼らはスウェーデンへ向かいます。「ストックホルムのウイングスーツ用風洞での初めてのテストは、ひとつのマイルストーンでした。私は嬉しくて仕方がありませんでした。なぜなら、実際にインペラを装着し、コントロールしながらの飛行が可能かどうかを、そこで初めて確かめることができたからです。ストックホルムの風洞は世界で唯一、ウイングスーツ・パイロットが屋内で飛行できる施設です。私はそこでスカイダイビングをシミュレートし、パラシュートが問題なく開くかどうかをテストする機会を与えられました。結果、それがとても頑丈であると実感し、自分たちのやり方が正しかったという確信を得ることができたのです」。そしてザルツマンは、この暫定的なドライブユニットを装備して初めてヘリコプターからのテスト・ジャンプを行います。装備が飛行動作にどのように作用するのかの感覚を掴むためです。
その後ザルツマンは、インペラ・ユニットを装着した30回を超えるテスト・ジャンプを行いました。「初期の評価では、インペラは十分な気流を掴みきれていないという結論に至りました。そこで、ウイングスーツに追加のエア・インテークを組み込むことにしたのです」。ドライブユニットはBMW iおよびBMWデザインワークスとの緊密な連携のもとで設計され、細部に至るまで最適化されました。また、重量が大きすぎるため、さらなる軽量化が必要なこともわかりました。「緊急時に迅速にユニットを取り外す方法も考えなければなりませんでした。そしてこれを制御するために、オン・オフのスイッチをパイロットの手がいつでも届きやすい位置に装備する必要がありました。現在、左袖に取り付けられた推進力調整システムは、人差し指と中指で操作することができます。」
アルプスの早朝、美しい山並みから太陽がゆっくりと顔を出します。カウントダウンが始まりました。30分後、ザルツマンは運命のジャンプへと向かいます。電動ドライブユニットを備えたウイングスーツは、ネジや縫い目の一つひとつに至るまで入念なチェックが行われました。3,000メートルを超える高さからのジャンプなど、普通ならば不安で仕方ないことでしょう。しかし、ザルツマンは落ち着いています。冷静でありながらも胸の内では情熱の炎を燃やしているといった様子で、どのようにフライトするつもりかをチーム・メンバーにジェスチャーを交え説明をしています。実は当初、このフライトはまったく別の場所で行われるはずでした。ザルツマンは2020年の春、韓国・釜山でこのジャンプを披露する計画を立てていたのです。しかし、新型コロナウイルスの流行により、断念を余儀なくされてしまいます。その後の予定が立たないまま数か月が経過しますが、やがてパンデミックが落ち着き制限が緩和されるとともに、プロジェクトは再開。ちょうど彼が新しい父親になる頃、電動フライトの夢が実現しようとしていました。
緊張していましたか?いいえ、と答えた直後、彼はこう付け加えました。「もちろんいつでも多少の緊張はありますが、それはむしろ必要なことです。この速度と圧力の中ではすべてを完璧に行う必要があり、失敗を犯すとどうなるのかを常に理解しておかなければなりませんから。積み重ねてきた経験があればこそ、私は自信を持ってヘリコプターのこの場所に座り笑顔でいられますが、その様子に驚く人もいるかもしれませんね。ヘリコプターが離陸する時、装備はしっかりとチェックされており、私も心の中で一つひとつの手順を実行していきました。上昇する先には、期待があるのみです」。ジャンプには、精神的な強さだけでなく、身体的な適合性も必要です。ザルツマンは飛行のポーズを取りながら説明をします。「身体にかかる圧力は、特に装備をつけている時にはとてつもなく大きいものです。私は両腕を伸ばした体勢で、約5分間保持することができます。数か月間毎日特別な訓練を行い、胴、首、肩の筋肉を鍛えています」。
3、2、1、ゴー!ピーター・ザルツマンは、長いこと待ち望んだその合図を無線で耳にし、飛び出します。地上からだとこのパイロットと2人の仲間が最初は離れた3つの点のように見えますが、その後、急速に接近し合います。彼らは常に一緒にフライトをする、ウイングスーツ・パイロット仲間です。ヘリコプターが向きを変える一方で、パイロットたちはさらに速度を上げていきます。1、2メートルという狭い間隔で飛行する3名の隊列が、崖の間を抜け、谷間へと向かっていきます。
3年間、ザルツマンとチームはこの瞬間のためにすべてを捧げてきました。過去2年で彼はかつてないほど多くのジャンプをし、自らの限界を越えるような挑戦をしたことも1、2度ありました。そして、ついにその時がきたのです。人差し指と中指でアクセルのレバーを手前に引きます。2人の仲間が降下し続ける中、彼は電動のブースト機能によって再浮上し、さらに急上昇して「ユングラウ3兄弟」の頂上を越えて行きます。あたかも見えない力が働いているかのようです。1,000メートルの高さで味わう静かな陶酔。まさに、それまでの彼の努力と苦労が報われた瞬間でした。完全な電力での飛行を楽しんだ後、ザルツマンは息を吐いてパラシュートを作動させました。スポーツの限界を再定義するために、彼は自分自身の限界に挑戦したのです。
アルプスの午後。ピーター・ザルツマンは無事に着陸しました。彼はパラシュートをまとめ、インペラを改造された台車のような専用のキャリアに丁寧に固定し、残りの装備をBMW iX3に積み込みます。最後に一度振り返って山々を見つめた後、家族との時間のため家路につきます。そう、夢のようなフライトの余韻を味わいながら。「私にとって電気自動車の運転は、ウイングスーツでの体験に似ています。音が似ていて、瞬時に加速する感覚も同じです。
BMW iX3で路上を走る時も空中を飛行する時も、電気を利用して自分が選んだサステイナブルへの道を辿れることは、とても嬉しくて気持ちの良いものです」。このエネルギッシュなオーストリア人は、これからも休むことなくさらに上を目指していくでしょう。彼にとっては韓国行きの計画は延期されているだけで、高層ビルの間を飛行するというチャレンジにも変わりはありません。「私はもっとトレーニングを積む必要があります。装備もより最適化し、自らを奮い立たせていきたいと思います」。
彼のチャレンジによって明らかになったのは、「あらゆる進化は、慣れ親しんだ習慣から脱却し、未知の領域に踏み込む勇気によってもたらされる」ということに他なりません。